にゃほにゃほ読書ブログ

ゆるく読書感想文を書いてるブログです

ブログ復活!

特に誰にもみられていないブログだと思うけど、復活することにした。

復活するまで、いろいろあった。

 

noteに浮気したり←

ち、違うんだ。読書とは別のテーマで書きたいと思ってたの><

noteとはもう手は切ってある!

 

不妊だったり

妊娠したり

出産したり

で、今4ヶ月の赤ちゃんを寝かしつけてここにいる。

 

赤ちゃんを育てていると、生命の不思議を感じる。

教えられていないのに、なぜ寝返りが打てるのか、

いつ誰が教えたんだろう。とか。

 

もっと読書して、勉強したくなった。

人間について、生命について。

勉強するだけじゃ物足りず、何か書きたくなった。

 

話したいことがあふれてきて、

以前のブログを思い出して、読み返してみた。

そしたら私は結構いいこと書いてた!

と自信がついた(笑)

 

だから閉鎖するのはもったいないから、

何か書こうとおもう。

赤ちゃん見ながらだから、

最低限書くことを目標に、あんまり力を入れずに、

でも途切らせないように(重要)

書けますように><

なんか違う不倫報道

不倫は良いとは思わないし、当事者だったら、すごく怒ると思う。

でも、ここ数年の不倫報道、特に今年の報道は過剰な気がする。

非難するのは、奥さんとか、子供とか、家族だけで良いのだ。

 

不倫問題は、その字の通り「倫理観」が浮き彫りになる。

将来有望なアスリートの不倫が話題になっていて、選手生命を絶たれかねない状態だ。

また、良い音楽を作るグループの一人の不倫のせいで、その人抜きで活動になりそうである。

 

もったいない……

そんなの家庭内不和の問題である。

人類の多くが、めったになし得ない、素晴らしい音楽や、記録が出せそうなのに。

 

歴史上、後世に語り継がれそうな芸術を創ったり、素晴らしい選手だった人、もしかしたら、不倫してたかもしれない。でも、もし不倫で叩かれて、いなくなっていたりしたら、それは生まれなかった。

 

本当は、アンジャッシュの渡部さんだって、仕事まで奪われるべきではなかった。(明るみになる前に自粛したとのことだが、実質奪われたのと一緒である)もはや、すれ違いで噛み合う絶妙な会話のことを「アンジャッシュみたいになってる」というと、大体通じるぐらい、代名詞のようになっている。

また、唐田さんの出ていたMV「ハッピーエンド」は素晴らしかった。切なくて、バックナンバーの歌詞とも相まって見るたびに涙が出る。唐田さんじゃないとできないと思った。

 

不倫してしまったことが良いとは決して思わない。

でも、一般人か有名人かに関わらず、仕事やその功績とは切り離されるべきなのだ。

 

ちなみに、奥さん(または旦那さん)がかわいそうだから叩いてるんです、という人の偽善にはうんざりだ。そういう風にかわいそうと言うことが、一番奥さんを追い詰めるのである。

それとも、わかっててやってるんじゃないか?幸福そうに見えていた家庭の、奥さんばかりかわいそうかわいそうだと言いながら、ああ良かった、幸福そうに見えて実は不幸なのね、と思いながら安心している思考回路が垣間見える。そんなことしたって自分の生活が幸せになるわけじゃない。自分がどうすれば幸せになるか考えた方がよほど生産的である。

 

今後、不倫報道には、反応しない。反応するとしても、「そうなんだ、大変だね。」と言うだけでいい。家庭の数だけ、形があり、問題があるのだ。不倫されて、離婚するかどうかも、配偶者が決めればいいことだ。

 

ただ、そうなると、週刊文春を始めとした、週刊誌は読まれないことになる。きっと、こういう雑誌は、不倫報道で味をしめている。というか、そうでもしないと長らく続く出版不況に生き残れないのだ。国民のレベルに合わせて、話題のレベルも下げている。それはとても、悲しいことだ。

一番苦しいのは、したくもない不倫報道をしている、週刊誌を発行する出版社の方かもしれない。

どうか、本好きとして、どんな出版社にも生き残って欲しい。だから、お願いだから、国民の、人類のレベルに合わせるんじゃなくて、上げて欲しい。きっと、私なんかよりずっと頭の良い方がたくさんいらっしゃるんだと思うから、もっと、文化とか、文学とかに興味を持って、事象に対して、深い考察ができるように。それが、人類に対するミッションなんだと思う。

『響きの科学』は、音楽に触れたことある人なら楽しく読める科学

音楽についての本当のことをそろそろ知っておきたいと、ふと思った。

小さい頃ピアノを習っていた。当時は、「感覚」重視だった。色々と深く考えずに、ただ与えられた教則本の曲を次々とこなしていた。優しい先生から合格のシールをもらうのが嬉しかった。それなりに上手くはなったけど、どことなく自分のものにできていない感があり、ピアノ自体をあまり楽しめなかった。

約15年のブランクを経て、ピアノを再開し始めた。以前の方がうまく弾けているのかもしれないが、音楽は自分の意思ではじめればとても楽しい。(←これは将来子供が生まれた時覚えておきたいポイントである。それでもピアノは小さいうちに習わせる価値があるから、迷うところである)

楽しさと同時に、以前重視していた「感覚」の裏付けが欲しくなる。

長調は明るくて、短調はちょっと怖いと習ったし、実際そう聞こえる。それはなぜなのか?ただの音階の並びなのに、雰囲気とか気分まで規定できるのって、不思議じゃない?

和音についても、なぜ気持ちいい響きと、ちょっと嫌な響きがあるんだろう?

そもそも、世の中には色々な音があるのに、音楽になりうる音、ただの雑音があるんだろう?

そう思ったのが、この本を読んだきっかけである。

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物理学者兼ミュージシャンのジョン・パウエル氏が、音の出る仕組み、楽器、音階など音楽にまつわる事象を追求する本だ。

物理学という一見堅苦しい事象を取り扱いながら、著者の「音楽を通じて人生を楽しむ」、というスタンスが、読んでいて気持ちいい。

例えば、ギターの弦が鳴る仕組みは、弦の気持ちになって解説している。弦は、引っ張られて不快な思いをしたから、逆方向に急いで戻ろうする。しかし、勢いがつきすぎて止まらなくなるから、エネルギーが尽きるまで動き続けなければいけない…と。どこか哀れで可愛らしい弦の姿。

他にも、著者のユーモアやお茶目さが端々に現れており、クスッと笑ってしまう。

そして、私も含め、音楽に触れたことがある人なら、抱くであろう疑問、「和音と不協和音の違い」「音階の仕組み」「長調短調の起こり」に、科学と歴史の両側面から答えてくれる。

理系でなくても、音楽に触れたことのある人であれば、「ああ、あれってああなんだ」と興味深く読むことができる。

「ああ、あれってああなんだ」と思う瞬間って、勉強や読書で得られる一番の収穫だと思う。

 

余談だが、ピアノで隣り合う鍵盤の音は不協和音になるが、間が空いていると和音になる。

これって、今でいう「ソーシャルディスタンス」に似ている。

人と人も、本来間隔を開ける必要があるのかも。

その方が、一人一人が自立しつつ、調和の取れた響きが作れるだろうから。

アンナ・カレーニナの冒頭について考えてたら証明みたいになった

大学生の時に、ロシア文学の授業を取っていた。担当の先生は美人で(厳しくもあった)、授業は奥深く、文学の楽しさを知った。

 

私は当時フランス文学専攻だったが、その授業を受けてから、ロシア文学にも惹かれるようになった。

 

ロシア文学に馴染みのないと思っている人にも、実は日常的に浸透しているのだ。例えば、「古畑任三郎」などのミステリーはドストエフスキーの『罪と罰』がベースになっている。また、「ロリコン」という言葉の元になったのは、ナボコフの『ロリータ』という小説である。

 

そして、今日注目したいのは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭である。

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全部読んだこともない人も冒頭だけは知ってるという人もいると思う。

幸福な家庭は、皆同じように見えるが、不幸な家庭は様々な形がある。

 

(余談だけど、文学小説に出てくる女性の中でもアンナはトップレベルの美しさである。そして小説としても面白いから読んでみてほしい。)

 冒頭の文はよく引用される。中2の時、赤川次郎の『ふたり』という小説で引用されているのを発見した。その時は引用元が分からなかったので、『アンナ・カレーニナ』を読んだ時、その再会に感動したものだ。最近では、ハラリさん(『サピエンス全史』の著者)の著作で引用を発見した。「知ってる人は知ってるよね」という口ぶりだったから、「おお〜知ってる知ってる」と嬉しかった。

 でも、思う。なぜ、そんなことが起こるのだろうか?確かに、家庭に限らず、幸福な人の理由は同じっぽい。不幸な人は様々なことがある気がする。これが、わかれば「幸福とは何か?」が分かるのではないか?

 そこで、「幸福」というのを大きく3つの要素に分割してみよう。

<幸福な家庭の条件>

(1)家族みんなが健康であること

(2)家族が仲がいいこと

(3)家族が暮らせるお金があること

まあ、他にもあるかもしれないけど、大体この3つに繋がってくる。

すると、幸福な家庭とは、(1)〜(3)全てが揃っていることである。

ということは、この条件の中だと、幸福な家庭は1通りである。

 

 では、不幸な家庭は?

少なくとも1つが欠けている場合である。

誰かが、病気だったりとか、貧乏だったり、仲良くなかったり、それでも幸福と言えるケースもあると言われるが、3つ揃っている幸福には敵わないだろう。

そうすると、(1)〜(3)一つが欠けているのは、3通り、二つ欠けているのは、3通り、全部欠けているのは、1通りで、計7通りである。

不幸な家庭は、幸福な家庭の7倍のパターンがあることが証明された。

 

なんだか数学の証明みたいになってしまった。幸福を構成する要素をもっと細かく分けると、より不幸なパターンは増えていくが幸福な場合は1通りのままである。

幸福とはいくつかの要素でできている、全部満たせば幸福である、と言えるだろう。

 

ただ、この場合の幸福っていうのは、他者から見た幸福でしかないと思う。

アンナ・カレーニナのように、物語になりうる幸福と不幸だ。今風に言うと「SNSで自慢できる幸福」である。

 

家庭の構成員である個人が感じる幸福は、それとはまた別である

幸福の条件を満たしてなくても、幸福を感じることができる。

また、条件を満たしていたとしても、幸福だと思えない人もいる。 

 

何があれば個人は幸福だと思えるのか?それは、別途探ってみたい。

 

読書に集中するために〜スマホ依存脱却までの道〜

読書ブログにあるまじきことだが、最近、読書に集中できないでいた。

最近というか、ずっと前からだ。

その元凶は、スマートフォンである。

1日を充実したものにしよう、そう思っているはずなのに、ついスマホを見てしまう。10分、30分、1時間と、なんの学びにもならないサイトを見てしまうのだ。

読書好きは活字好きだとも言えるので、活字があるとついつい追ってしまう。そのため、スマホのサイトにありがちな「気になるタイトル」があると、つい広告をくぐり抜けて、開いてしまう。そして後悔する、の繰り返しだ。

今回は、読書好きの活字好きが見てくれていると信じて、私のスマホ依存を脱却した体験をお伝えしようと思う。私が誰かの役に立ちたいと思って記事を書くなんてめったにないから、この記事だけでも読んでほしい。

 

スマホ依存から抜け出したい

スマホ依存から抜け出したい、と思った当初は、iphoneのスクリーンタイムで、よく見るサイトを15分以内に制限していた。

15分経つと「制限時間を超えました」という画面表示になる。

それでやめられれば、まだ軽症である。

しかし、その下に出てくるのだ、「15分後に通知」「制限を無視する」という項目が。スマホ依存重症患者な私は、当然15分後に通知を押す、を繰り返して、結局意味がない。

 

そして、スマホを見ていた時間を合計すると、1日計5時間になっていた。

この間に、何冊の本が読めたことか…。いつも後悔してしまう。

次は充実した1日にしよう、と誓うのだが、また同じことの繰り返しである。

 

「Forest」という優れたアプリがあり(そんなに重症じゃない方は使ってみてほしい、スマホを触っていない時間だけ木が育つ、なんと本物の木も植えられる)そのアプリも使っているのだが、ひどいときは木を枯らすのも平気になってしまう有様である。

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道具に頼る

なんとかして、スマホ依存から抜け出したい!

そう思って、ついに手を出してしまった「タイムロッキングコンテナ」

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スマホに限らず、何か依存脱却したいもの、お酒・タバコ、お菓子(いくら依存していても、彼氏とかは入れられないので注意)を入れて時間を設定すると、鍵が閉まり、設定した時間が来るまで開けることができない。開けるには容器を壊すしかない。

約8000円、私にとってはかなりの出費であるが、これを機にスマホ依存から抜け出してみたい、そう思い買うことにした。

翌々日に届いて、いざ開封

容器部分、蓋部分、ともにプラスチックだが、容易には壊れなさそうだ。

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タイムロッキングコンテナ

説明書が入っていた。

開発者はチョコチップクッキーがやめられないのを解決するために、開発したそうだ。

かわいい。(本人は、深刻だろうけど)

試しに10分で設定する。5秒のカウントダウンののち、ウィーンという音がして蓋にロックがかかる。蓋は動かない、とてもシンプルな仕組みである。

閉じ込められているスマホは、なんだかかわいそうだ。スマホ自体に罪はない。私の意思が弱くて好奇心がとっ散らかっているのが悪いのである。(※かわいそうな姿を写真に撮りたかったが、スマホにカメラがあったから撮れないのだった。)

設定した時間が来ると、再びウイーンという音がして、ロックが開く。

 

そうして、使い始めてから一週間ちょっと経つ。

これは本当に、我ながらいい買い物をした、と思っている。

私の使い方を参考までに挙げておこう。

 

効果的だった使い方

朝夜スマホ防止

夜寝る前にスマホを見ていて、気になる記事があるとつい夜更かししてしまう。また、朝目覚ましアラームにスマホを使うと、そのままニュース、そしてくだらない記事、とネットサーフィンしてしまい、朝の貴重な時間を失う。そこで、夕食後の夜8時から12時間ロックする。ちなみにこの時、スマホの目覚ましアラームは切っておく(←これはとても重要なことである。アラームを止められない地獄に陥る)

こうすることで、夜と朝の時間が格段に増えた。夜はお風呂上がりにドライヤーしながらスマホを見ていたのだが、スマホが無いことで、時間短縮しただけでなくスキンケアにも集中できるようになった。肌も綺麗になった気がする。目の前のことに集中できるようになった。

朝は朝で、在宅の勤務が始まるまで、家事と身支度、そして空いた時間に読書をすることができている。「時間がない」と感じていたところ、まとまった時間が増えたと思える。

 

休日のダラダラスマホ防止

休日は、必要な連絡を済ませたら、3〜4時間ぐらいロックしておくようにした。不思議なもので、タイムロッキングコンテナに入れておくことで、スマホに対する諦めがつくのである。

必要に駆られる時はもちろんある。料理のレシピなど調べたいとき、何か買いたいとき、ピアノの曲のお手本聞きたい時など。そういうときは、「なんでスマホが必要なのか?」「調べてどうするのか?」「スマホが無い時代はどうやって解決してたのか?」と考えるようになる。スマホが使えるようになっても、目的を持ってスマホを使うようになるのである。

 

悩みは「調べて安心」ではなくて「解決を目指す」

思えば、何か心に引っかかったり、ちょっとした悩みがあると、Googleで検索する癖が付いてしまっていた。知恵袋などで、同じ悩みの人や逆の立場の人を見つけたりしていた。でも、そこにあるのは「解決」ではなくて「安心」だった。今まで、その悩みに対して、解決ができたこと、あっただろうか?

スマホが無いことで、心の引っかかりをよく観察するようになった。観察するのは、辛いけど、その方が健全で、創造性もあるような気がする。

そして、何を解決したらその心の引っかかりがなくなるのか、自分で考えて、必要なときに初めてインターネットを手段として使う。

いい結果

 一週間経って、もはやタイムロッキングコンテナを使わなくても、スマホを見過ぎるということは無くなった。スクリーンタイムで確認したら、1日の平均スマホ時間30分だ。以前の5時間と比べると、大幅に減っていることが分かる。

その分、読書はもちろん、夫と過ごす時間を大事にしたり、ピアノを弾いたり、運動したり、自分のしたかった行動の時間が増やせている。また、より自分を信頼した1日の計画を立てられるようになった。人生の質が高められている気がする。

スマホが使えないデメリット

お酒やお菓子やゲームなどど違って、スマホを完全に断ち切るのは難しい部分もある。

使えないことでやはり不便なこともあるからだ。

例えば、ポイントカードがスマホのアプリと連動している時、とか。写真撮りたい時とか。

また、コロナ禍でオフィス勤務から在宅勤務になったため、社内の連絡は全て個人用スマホである。

 そんな時、「やっぱりポイントカードは磁気カードにしようかな」「カメラ欲しいな」「電話だけの携帯欲しいな」と思うのである。

 スマホが無い時代のように、音楽はウォークマン、カメラはカメラ、など分かれている世界を想像してしまう。それぞれがスマホに集約されることなく、もっと発展していけばいいと思う。

 

気づいたこと

スマホから離れて思うこと。

本当の目的は、「スマホ依存からの脱却」ではなかったのだ。

もし、「スマホ依存の脱却」自体を目的にしてしまうと、スマホ依存から脱却したとしても、例えばPCから学びのない記事を見続けてしまうかも知れないからだ。テレビをだらだら見るかもしれない。

それは、私のやりたいことではない。

私がしたかったのは、「意志を持って物事を進める」ことであった。

1日を自分のしたいようにデザインして、自律心を持って行動すること。

それを阻むのが、今はたまたまスマホだっただけだ。

タイムロッキングコンテナで、意志が強くなったわけではないが、無理をせずにスマホから離れる、そんなきっかけをくれたと思っている。

 

ただの読書好き文系が生命科学をかじってみた〜基本編〜

 

同系列の本を3冊読むという宣言を前回の記事で行い、それを実行していたら、1ヶ月近くも時間がかかってしまった。でも、ただ本を漫然と読んでいた今までに比べると、有意義な時間だったと思う。また、前回「3冊本を読んだら知識になるのでは?」と仮説を立てていたが、3冊読んだだけでは、知識と呼べるには程遠い、まだ知らない世界がある、という実感である。

今回は、文系の私が無謀にも、生命科学を学ぼうとした、その記録である。生命科学は、その仕組みが本当に面白く、書いていたら結構なボリュームになってしまったので、分割して書こうと思う。今回は、基本編として、入門的な本を読んで学んだことを書いていく。

 

生命科学を学ぼうとしたきっかけ

私が、今こうして読んで、何かを考えている。それも、生命だからだ、と

考えると不思議な気持ちになった。

自分や他の生命について知りたいと思う、生命体って人間だけだよな…と思った。

当たり前だが、他の生命体は本を読んだりしない。

いつかは終わってしまう命。

今の命が終わったら、この意識がどうなるのかは誰もわからない。

どんな世界に行くのかも。

私がもし、原子の集まりだったとして、それが無くなったら、この意識でさえも、ばらばらにされて、全く別の生命体となるだろう。

この命であるうちに、生命について、知っておきたい。

 

なぜ、こんなことを考えるようになったのか。

新型コロナウイルスの感染者数は、止まることを知らず、このままでは人間が、負けてしまうかもしれないな、と思っている。

このまま治らなかったら、私も、無事ではいられない時が来るかもしれない。

 

「端」にいて、初めて考えることってある。

1日の始まりと終わりには、1日のことを考えて、月初と月末に、その1ヶ月のことを

考える。その年のことを振り返るのは、年末が近づいてきてからだ。

同じように、人類の生命が危機に立たされている。

人類の歴史の「端」も、視野に入れ始めた。

そんな時、生命の全体を知りたい。そう、思ったのである。

 

1冊目.文系の生命科学入門書『池上彰が聞いてわかった生命のしくみ』

1冊目に読んだのはこの本である。

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池上先生が、同じ東工大の教授に生命科学について質問する形式。基礎的な部分からわかりやすく、対話形式で進んでいるので、1冊目に選んで正解だった。(メモ:普段話上手な池上先生は、聞き上手でもあった。)

学んだこと(1)・・・生命の定義について

生命の定義でよく言われるのが「境界・自己増殖・代謝であるそうだ。

膜で覆われているため周りとの境界があり、自分で増えていく。そして、外部からエネルギーを取り込んで様々な化学反応を起こす、代謝。人間でいうとご飯を食べて消化することなどが代謝にあたる。

猫型ロボットはもちろん生命ではないが、なぜ生命ではないのかというと、自己増殖しないからだ、と理解した。

では、今世間を騒がせている、ウイルスは生命なのか?

本書では、代謝の部分で「他の細胞を使っても良い」とするなら、ウイルスを生命と見なしてもいいのかもしれない、とある。

ウイルスは自分の力では生きていけず、他の細胞に入り込み、養分をもらって自己増殖するのだそうだ。彼らはヒモなのか・・・?

お金がなくて恋人の家に転がり込み、ご飯だけ作ってもらい、そのエネルギーで浮気しまくっている、どうしようもない奴の姿が思い浮かんだ。しかも、浮気の果てに自分のコピーをどんどん生み出している。ご飯を作ってお金も稼いでるのに、報われない、どんどん養分を吸い取られてしまう恋人がかわいそうである。

そのままでも害があるばかりか、擬人化したら余計ダメな奴になった。ちなみに、人間に利益のあるウイルス、っていないのだろうか?脂肪とか、老廃物を養分としてくれるようなウイルスは。宿主が喜んで感染させて、共生させてくれそうである。ウイルスさん達は、一度検討してみて欲しい。

学んだこと(2)・・・遺伝子とDNAについて

遺伝子とDNAの違いをここで知った。

遺伝子は、もともとあるのではないかと言われていた概念。「メンデルの法則」でよく知られている。改めて研究される前から、遺伝というのは、人々にはわかっていたことなのだろう。でも、それが細胞の中のどこにあるのかわからなかった。

その遺伝子を担う物質が「DNA:デオキシリボ核酸」であると後になって判明されたそう。

DNAは、リン酸、糖、と4種類の塩基でできている。この4種類の塩基というのが、DNAが「二重らせん」を作る鍵になる。

4種類の塩基は、A:アデミンT:チミンC:シトニンG:グアニン。アデミンはチミンと仲が良く、ペアになる。シトニンはグアニンと仲良く、ペアになる。そのペアが繋がって行くと、ねじれて、梯子がねじれた状態になって行くそうだ。

私には、空間把握能力がないので、4つの塩基がペアになって二重らせんをなして行く様子を実感することができない。工作とかしてみたりした方がいいだろうか?

また、DNAが複製される際は、二重らせんが2本に別れて、2本とも鋳型になることができるので、この形は結構有利なのだそうだ。

生命は、よく見つけたな、こんな物質・・・。池上さんも感心していた。

学んだこと(3)・・・ES細胞とiPS細胞について

名前だけ聞いて満足していた、「ES細胞」と「iPS細胞」、その違いを学んだ。

ES細胞は、別名「胚性幹細胞」。受精卵がちょっとだけ育って、胚になった状態の細胞を取り出したものである。受精卵は、何にでもなれる万能細胞。ES細胞は、胎盤にはなれないので万能ではないが、それ以外の細胞に変化できる。

会社員に例えていうなら、「新卒の研修が終えた配属前の社員をヘッドハンティングした」だろうか。引き抜いた側は、ビジネスマナーを一から覚えこませなくて良いのでラッキーだが、元の会社にしてみれば、せっかくお金と手間をかけて育てた社員が会社の役に立つ前に引き抜かれたら大迷惑だろう。

iPS細胞は、既に皮膚や白血球に変化した細胞を、変化前の細胞に戻したものである。ES細胞と同じく、胎盤以外ならなんでもなれる。胎盤は受精卵しかなれないのか?難しいな…新卒じゃないと入れない部署みたいだ)

また会社員に例えてしまうが、「既に働いている社員を、一旦人事部付けにして、異動させる」みたいなものだろうか。これなら、人員不足にも対応できる。

細胞の話に戻ると、iPS細胞は、再生医療の分野や、美容への活用が期待されているようだ。お腹の脂肪を、胸に…なんてこともできるのかな?妄想してる…

学んだこと(4)・・・タンパク質について

驚いたのが「タンパク質はすごい!」ということ。「はたらく細胞」というアニメを前見ていたが、まさに「はたらく」を担っているのがタンパク質だ。血中で酸素を運ぶ「ヘモグロビン」も、食べたものを消化する「消化酵素」、そして心臓を動かす筋肉も、タンパク質なのだ。生きていること全てを担っているのが、タンパク質。本書には、歩く細胞の様子とか出てきている。

タンパク質を摂らなければ!と思える。

ちなみに、タンパク質を摂取すると、そのままタンパク質になるのではなく、一旦アミノ酸まで分解されて、そのアミノ酸を組み合わせて、必要な働きをするタンパク質となる。

例えるなら、食材セットを買ってきて、一旦バラバラにして、作りたい料理の材料を組み合わせる、みたいな感じかな?

学んだこと(5)・・・セントラルドグマについて

DNAと、タンパク質には、どのような繋がりがあるのか?それは、「セントラルドグマ」と呼ばれる、生命の統一原理で説明できる。

セントラルドグマとは、DNAからRNAという分子に情報が「転写」されて、そしてRNAからタンパク質が作られる(翻訳)、一連の流れのことである。

RNAは、DNAと似てるけど、DNAよりも簡単な作りをしている。DNAの25000種類の情報の中から、必要な一部を転写している。

そして、その転写された塩基の情報が、タンパク質の素であるアミノ酸に翻訳される。

DNAという大資料室の中から、必要な資料だけを取り出し、タンパク質になれるよう翻訳まで行う、RNA、有能すぎるぞ!

 

セントラルドグマかぁ…」と呟いたら、夫に「エヴァのこと?」と聞かれた。わたしは、エヴァンゲリオンをちゃんと見てないのだが、地下施設のことらしい。エヴァには他にも生命科学由来の言葉が出てくるようだ。

学んだこと(6)・・・ゲノム編集「CRISPERーCas9」について

CRISPERーCas9について、学んだ。RNAはDNAと同じ塩基を持っている。同じ塩基ということは、(2)で学んだように、ペアになれるということだ。RNAがペア担っているところを狙って、Cas9という酵素でDNAとRNAを切断。細胞が切断されたところを修復するときに間違えてしまう、のを利用して、ゲノム編集を行う、という仕組みだそうである。

うーん、よくわからない。第一、「間違える」って。間違えることで、望んだ方向に行けばいいと思うけど、本当にうまく行くのだろうか?詳しく説明すると、読者の理解が追いつかないから、あえて「間違える」、と書いたのだろうか?

仕組みは、もっと理解が必要だと思うが、うまく「間違える」ことで、大きく科学は進歩するということはなんとなくわかる。 本書では、遺伝子にまつわる病気の治療や、品種改良によって食糧難を救う、ということが触れられていた。

 

ただ、遺伝子編集を行うことで、オフターゲット効果と言って、狙っていないところに作用してしまい、害を及ぼしてしまう問題点もあるようだ。まだ遺伝子の全貌がわかっているわけではないので、副作用の不明な治療、になる可能性がある。患者にとっては、今すぐにでもこの苦しみから逃れられるなら治療を受けたいという気持ちだろうが、どんな副作用があるか分からないとなると…、迷うところである。

 

基本編感想

自分の体が、細胞が、タンパク質が、まるで会社のように組織作られて上手な仕組みで動いている。まるで意思を持つように。

それはとても不思議なことだ。

でも、本当は逆なのかもしれない。

細胞の動きが先にあって、人間の社会組織が、どうしても細胞の組織に似てきてしまうようにできている。人間は、意思を持っているようでいて、実は何か別の何かに突き動かされていたりして。

その、別の何かっていうのは、何なのかっていうと、「全体として、生き残って、進化することを目指す」 ことなのかなと思ってる。

細胞には、「アポトーシス」という自爆作用が備わっており、例えばDNAに異常があった時に、その細胞だけ死んで個体全体が生き残るようにする、という仕組みがあるそうだ。

全体が生き残るために、一部を犠牲にする。人間の世界でもあることである。

これが、悪い方向に行ってしまうと、全体主義みたいな、戦争を引き起こした原因にもなるが、それは「全体」の範囲が狭すぎるからである。

もっと国とか、会社とか、宗教を超えて、人類全体に視野を広げてみたらどうだろう。

その上で、前向きに考えてみる。

「人類全体が、生き続けられれば、いいじゃないか」

最初にも書いたが、人類はコロナウイルスの広がりで危機に瀕している。

いつ、自分がかかってもおかしくないぐらいに、私の住んでいるところでも、広がっている。今よりもっと悪い状況、というのも、あり得なくはない。

でも、生命の話を聞いて思うのだ。

生き残るのは、私じゃなくてもいい。

コロナがどんなに最悪の状況になっても、人類の中で、誰かが1人か、2人でも生き残っていれば、また人類はやり直せるのだ。

1人か2人じゃ心細いから、生き残るのはできるだけ多いほうがいい。

そして、多様性があったほうがいい。

幸せでいたほうがいい。

そう考えると、他人を生かして、幸せに生き続けるために、動きたい、と思うのだ。

種として生き残るために、他人を思いやりたいと思うのも、人間の欲求の一つかと思う。

 

次回予告

ただの読書好き文系が生命科学をかじってみた〜ビジネス応用編〜

基本編を学んでいて、気になったのが、生命科学のビジネスはどれくらい進んでいるのか、ということである。その有用性と、倫理観の狭間に立たされている気がする。その部分を、科学者はどう考えてるのか?探ってみたい。

 

 

 

 

 

 

本はこう読むことにした宣言

本が好きだ。

本は呼吸するように読みたいし、家中本棚でいっぱいにしたいぐらいだ。

須田敦子さんのエッセイにもあったように「塩1トン分の読書」をしたい。

そう思って生きてきた。

本好きを公言していたし、本屋に行って面白そうな本があれば迷わず買った。

 

でもある時、ふと思った。

読んだ内容を、思い出せなければ、本棚に埋め尽くされている本は、ただの紙なんじゃないか?

 

それでもいい、と思った時期もあった。

たとえ、忘れていたとしても、深いところで自分の血肉となっているはずだ。

そんなことを信じていた。

 

しかし、兼業主婦になり、お金や時間を大事に使いたいという思いが現れてきた。

「節約」という言葉は好きじゃない。

せっかくの人生は攻めていきたいからだ。

ただ、かけた時間やお金を、必ず意味のあるものにしたい。

そうするには、読んだ本を確実に自分のものにしなければ。

そう考えて、これからはこのように本を読むことにした。

 

「ある分野を本で学んだら、関係する本を3冊以上まとめて読む」

新しい知識とは、初めて出会った人のようなものだ。

異業種交流会では、名刺交換をして軽く雑談をする。マッチングアプリで出会った子は、一緒に食事をする。

その時は、気が合うと思っても、しばらく連絡を取らないでいると、何の話をしたかとか、印象さえも忘れてしまう。

しかし、その人と、偶然別の場所で出くわしたらどうだろう?

マッチングアプリで出会ったあの子、ジムが一緒だった!異業種交流会のあの人、同じ電車に乗ってた!

初めて会った時よりも、ずっと印象に残る。

また、2回目なら「どっかで見たことある人なんだけど、誰だっけ?」となっても、3回目なら確実に思い出すだろう。

ストーカーされてるみたいだ・・・・。とさえ感じるかもしれない。

でも、好感を持っていれば、「運命の出会い!」と思える。

読書における知識も、この「運命の出会い」を頭の中に、作り出す。

知識を脳にストーキングさせて、身につけざるを得なくしてやる。(こわい)

 

こう仮説を立てた。

もしこの方法がうまく行って、私が読書術を伝授するような未来がきたら、こう言いたい。

「1つの分野につき、1冊読むのは娯楽、2冊読むのは雑学、3冊読めば知識」

なんか、それっぽいこと言ってるでしょう?

 

今は、「生命科学」(オートファジーとかゲノム編集とか)を知識として学んでいる。3冊を関連づけて読むことで、知識の補い合わせができるし、もっと知りたいと思ったことは、インターネットも積極的に頼ることができる。本は本屋派だったが、Amazonで初めて本を注文したし、キンドルの導入も検討している。

 

今まで本好きと言いながら、本屋以外の出会いを拒んでいたことが恥ずかしい。偶然の出会い、本への一目惚れは確かに楽しいが、目的に合わせて知りたいことを選べると、時間も大事にできる。

 

でも娯楽的な読書も無くしたくないのである。

畑を三つに分けて、それぞれ違う作物を育てる農法を世界史で習った気がする。

私の読書時間も3つに分けたいのである。

1.知識を身につけるための読書(3冊関連読書法)

2.娯楽的な面白い本読む(乱読)

3.洋書よみ(英語の勉強に近い)

こんな風に同時並行していこう。