にゃほにゃほ読書ブログ

ゆるく読書感想文を書いてるブログです

The Story of English in 100 Words の進捗 ”AND”

和書と合わせて英語の勉強も兼ねて洋書を読んでいる。

当然和書と比べると、進みが遅いのでちょっとずつ進捗を記録していこうと思う。

今日読んだのは、この本だ。

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100語の英単語を考察して、全体の英語の歴史を知る、言葉好きにはたまらない内容だ。

今回はAND(3項目目)の歴史、の部分を読んだ。

要約(合っているか分からない)は以下の通り。

8世紀に修道士がラテン語の翻訳で書きつけた英語に"ond"(andの古い綴り)がある。andは多くのよく使われる単語と同様に、省略系であり、元の形は"ampersand"だった。andの記号は古英語にもよく見られるが、数字の7の、右側が垂直になっている形だ。文頭につくANDは、19世紀中に文法教師に間違った使い方だとして禁じられたが、それは迷信であると否定された。シェークスピアの作品や、欽定新書などにも見られる古くからの用法である。

 

<覚えた単語>

monk:修道士

monastery:修道院

・・・中世の話を読むときに使えそう。文句(monk)を言う修道士と覚えよう。

 

roughly:「ざっくりと」が似合いそうな言葉

おおよそ、乱暴に、荒削りに

→roughの副詞形。roughはざらざらする、キメの粗いという意味から乱暴、粗暴という意味になった。「感触が粗い」が「性格が荒い」になるのって、日本語と発想が同じだなあ。ざらざらという意味と、お菓子を作るときに「ざっくり」混ぜるの発想で、ざっくりと、という言葉が合いそうだ。

 

scribe:筆記者 いかにも「書く」という単語だが、まさか人を表すとは。

 

abbreviate:要約する、短縮する。例:"Verb" is abbreviated to v. 動詞はvと略される。

日本人はよく物事を略すから、よく外国人に何かを説明するのに使いそう。この単語自体を日常的に使うのかどうか分からないが。 Warai is abbreviated to w. 

 

conjunction : 接続詞。発音してて楽しい。

 

King James Bible:欽定聖書。要約でしれっと書いたが、えっ!なんやねんそれ・・・!という気持ちである。調べたところ、キングジェームズは、英国王のジェームズ一世のこと。欽定聖書とは、ジェームズ1世の命令によって訳されたイギリス国教会の公式英訳聖書である。

そうそう、確かイギリスには独自の宗派があった。離婚しようとして、できなくて、イギリス国教会ができたんだっけ・・・。(参照:イングランド国教会 - Wikipedia )

 

英語を読むと、日本語のことをよく考えるようになる。

また、日本人にはなかった発想があるので、その分発見も多い。

時間はかかるが、洋書も読んでいきたいと思ってる。

 

つづく

 

 

 

お金というより時間かな〜『お金の減らし方』を読んで〜

タイトルに惹かれた。お金の増やし方、じゃなくて減らし方。シンプルなのに、常識と逆のことを言うだけで、こんなに興味を引くものになるなんて、やはり言葉の力は大きい。

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内容は、お金を減らす時(=何か買い物をするとき)自分の本当に欲しいものを見極めることが、幸せにつながる、というもの。消費社会の現代は、一見皆欲しいものを買えているように見えるが、そうではない、と著者は言う。

例えば、SNSなどで「人に羨ましがられるため」「いいねをたくさんもらうため」に何かを買ったり、高級な食事をしたり、旅行に行ったりする。それは、自分のために本当の満足を得られていないのではないか。

そうではなく、自分の好きを見極め、自分に投資をして、突き詰めていく。自分の好きなものが、自分を幸せにしてくれるのだ。

 

個人的には、これは「お金の減らし方」と言うより、「時間の減らし方」かなと思っている。

あまり私は、純粋にSNSのために何かお金をかけて消費したりすることって少ない。

ただ、時間や思考はSNSに奪われがちだ。

何かを食べにいった時、「あ、これは映えそうだ」と思ったら写真を取ってインスタにアップして満足する。

食べている時も、いいねの数を気にしてしまう。

食事に限らず、旅行とかも旅行そのものより、いいねの数を楽しみにしたりしてしまう。

また、他の人の投稿を見ると羨ましさで心がざわついてしまう。

SNSを始めると、その思考にとらわれがちである。

そんな時間と自分の頭が勿体無い気がする。

 

そんなことしているぐらいだったら、もう1冊本を読みたいし、将来のために英語を勉強したいし、ピアノを練習したいし、可愛くなるために筋トレしたい。

 

何かを買う時、も本書に書いてある通りそうなのだが、何かをしている時、時間をかけている時、「自分が本当にしたいことのために時間をかけれているか」を問えるような冷静さを持ちたいと思う。お金は、節約できるけど、時間は黙っていても減ってしまうものだから。

 

余談だが、著者の森先生の文体が、実年齢よりずっと若く見えた。定年後、と書いてあるのに驚いた。読み始めた時は、著者プロフィールを見ていなかったので、40代ぐらいの方かと思っていた。「僕」という一人称もあるのかもしれないが、自分の好きなことに情熱があるから文体にも若さがあるのかもしれない。それにしても、自分の趣味である庭園鉄道のために、バイトとして小説を書き始めて、1作目で大ヒットしたなんて、才能と行動力の塊だ。ここで、「私には真似できない」と思うか、「何かやってみよう」と思うかが、試されている気がする。

 

 

本の面白い時とつまらない時を分類した

本が面白い時、つまらない時って、どんな時だろう?

本の知名度や評判にかかわらず、読後に、ある一定の思いを持つ。

それが、なんとなく自分の中で分けられそうだから、分類してみた。

 

<面白いと思った時>

1.自分の前々から思っていたことが言語化された。

読んで初めて、自分はこんなことを考えていたのだと気づけるのは、一番気持ちがいい。評論では、自分の考え方が整理される。短歌や俳句、小説やエッセイで私の潜在的な思いが表出されたものを読むと心が洗われた気分になる。

 

2.新しい知識と考え方を得て、それに納得した。

新しい知識を得る。知識は思考につながる。そういう考え方があったのか、と思える。こういう本を読むのが本当に意味のあることだと思う。読みやすい形で新しい考え方を書ける作者って尊敬する。私が人に勧めたり、読書会で紹介したりする本は大抵この分類。

 

3.自分とは真反対の考え方なので、反論を考えることで自分の考えが深まった。

否定的な先入観を持って読むと、本当に言いたいことが理解できなかったり、書いていないことまで読んでしまうことがある。だから、頭ごなしに否定せずに、作者と討論しながら読んでいる。そうすると、自分の考えが変わることもある。人とのコミュニケーションもそうだと思う。

 

<つまらないと思った時>

1.通説と変わらない結論。

評論や新書系はタイトルで大体想像がつくから避けることができるが、タイトルから予想できない小説にもある。小説の読みやすさに惹かれて、読むと結局よくあるタイプの話。結局あのパターンか、とがっかりしてしまう。言っておくが、小説としての価値がないとは思ってない。ネタバレしない程度に丁寧に紹介文をつけてメルカリでお売りさせていただく。

 

2.難解過ぎる。

難解な本との戦いは好きなのだが、試合放棄しがちだ。息抜きのネットサーフィンの時間が多くなり、私は読書が本当に好きなのか自問自答することになる。難解タイプの本は、売ることはない。次の戦いまで取っておく。

 

以上のように分類してみた。

自分の感情や感覚を書いてるだけだから、他人にとっての面白さとは違うと思う。

 

でも、以上の分類が、誰かにとって、「面白い」に分類されるものであるとうれしい。

伊藤さんの帯が熱い!〜『動物裁判』を読んで〜

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読んだきっかけは、 伊藤さんが書いた帯だった。私は伊藤さんのことを知らない。でも、伊藤さんがそこまで言うなら、読んでみたいと思ったのだ。 

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 (※裏側に伊藤さんが書かれた帯ということが示されている)

 

実際は、こんなにハイテンションでなく淡々と書かれているのだが、内容とのギャップがまた面白い。

 

内容は、中世ヨーロッパにおいて、人を殺害した豚などの動物や、畑に損害を与えたネズミや虫などに対して裁判が行われていた、というもの。

 

虫は、全員「出頭」させるわけにはいかないので、代表して何匹かを集めるらしい。この様子を想像した時、つい今のの感覚で「かわいいなあ」と微笑んでしまったが、当時の裁判は大真面目だった。

 

後半は、動物裁判が行われた背景が書かれている。それは、ヨーロッパの人々の自然に対する認識に大きく関わってくるものであった。

 

古代〜初期中世のヨーロッパでは、自然は人間を脅かし畏れるものだった。神の怒りを鎮めるために、人間や動物が生贄として、捧げられた。しかし、キリスト教の「人間中心主義」が広まり、人間が技術を身につけてきた中世になってくると、人間の秩序を乱す自然に対して、自然が責任を負わせられることになった。その産物が、動物裁判、なのである。そして現在、環境問題や動物保護で自然から人間が裁判される時代でもある。

 

私自身の考えとしては、人間が自然に裁判を起こすのはもちろんだけど、自然から人間が裁判を起こすのも、おかしいと思ってる。自然については、まだまだ分からないことばかりにもかかわらず、裁判の代理になるのは、人間だ。人間が完全に自然の気持ちを理解しているとは言えないため、人間同士の争いになってしまう。

 

それでも、人間は、自然の一部だと言うことを常に忘れないでいたい。地震などの災害によって、多くの人が犠牲になる。今はウイルスに太刀打ちできないでいる。一方で、人のほとんどの食べ物は、何かの動物や植物からできている。周りの動物も植物も、殺さなければ、生きていけないのだ。たまにそれを忘れてしまうけれど。

 

私たちは、自然と迷惑をかけ合いながら、生きていくしかない。

せめて、いただきます、って言おう。

それで自然が許してくれるとは思わないけど。

本屋大賞に込められたメッセージ〜『流浪の月』を読んで〜

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本屋大賞に選ばれた本なので、読んでみた。

そもそも本屋大賞とは、本が売れないこの時代に、顧客のことを一番よく知る、書店員からの投票で「お客様に勧めたい」と思った大賞とのこと。

(参照:本屋大賞とは | 本屋大賞

 

すなわち、書店員が「もっと本を読んでほしい!」「本の良さに気づいて欲しい」と思って、選ぶ作品であるとも言える。1冊本を読むことで、その本が面白かったら、もっと別の本も読んでみたくなる、本をもっと読まなきゃな、と思うようになることってある。そうやって、より多く書店に足を運ぶようになったら書店員冥利につきると言うものだ。

 

この作品は、まさに物語の力、を感じさせるものだった。

あらすじをざっくりと説明する。主人公は、更紗(さらさ)という女の子。幼い頃、預けられていた家庭で上手くいかず、19歳の文(ふみ)という青年と出会い、彼の家でしばらく過ごす。それはとても自由で楽しい時間だった。しかし、文は女児誘拐容疑で逮捕される。更紗は優しかった文を大人になっても想い続けるが、周りの人は「かつて誘拐されたことがある女子」として同情する・・・。というもの。

 

描かれるのが、「周りの人の善意」と「本人の気持ち」のすれ違い、である。更紗が、どんなに文は優しかった、と言っても、職場の人や彼氏は、かわいそうだ、という反応しかしない。更紗のことを、ストックホルム症候群だと思っているのだ。(「ストックホルム症候群」とは、誘拐事件や監禁事件の被害者が、恐怖のあまり加害者との連帯意識を持ってしまう状態のこと。)

 

ここで私は、「ああ、やっぱ本は、特に物語は読まないとな」と感じた。

想像力を、育てなければ・・・・と思ったのである。

今、様々なニュースがテレビとか、ネットで溢れている。

報道番組が、事実(一旦信じたい)を伝えて、ワイドショーが事実の点と点を線でつなぎ、ネットやSNSが、それを好きなように解釈する。

その時、本当は何が起こっていたのか?本人たちの気持ちは、どうだったのか?そんなのは、置いてきぼりである。

 

ある事象に関して、だいたい同じストーリーが語られて、納得するような教訓が得られる。

例えば、不倫した芸能人はやめるべき。不倫された人は完全にかわいそうだ、とか。女児を誘拐したのはその人がオタクだからだ、とか。

過去起こったストーリーと同じように、その人の頭の中で組み立てたものを、今の事象にも当てはめようとしてしまう。反対の意見は、当事者からであっても受け付けない。例えば、不倫された人、した人がどんな釈明をしようとも、「そんなの言ったって許されない」「夫、または妻に、洗脳されてるからそう思ってるだけ」と、はねのける。一番大事な、当事者の話を聞こうとしていないのだ。

 

かわいそう、という善意さえ、当事者とずれていれば、その人を追い詰めるものだと思う。それぞれの人に、それぞれの人生があるのだ。

 

たくさんの本を読む人ほど、人の分だけ人生があることを、理解することができる。

そのことを書店員さんは、伝えたかったんじゃないか、と勝手に思ってる。

 

 

共感してるのに炎上する? 〜『炎上CMでよみとくジェンダー論』を読んで〜

この本、面白かった。

 

引っかかりがなく、一気に読める。それでいて、学べる部分が多い。

著者が爆笑が起きる講義で人気、と言うのも頷ける。

ジェンダー論って、ちょっとでもアンフェアだと感じると読みたくなくなってしまうのだが、

この著者の立場はフェアだと感じた。

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さて、一番この本をよんでよかったと思うのは、「広告の在り方」を改めて考えさせられたところだ。

今までは、広告(とか、マーケティング)は、共感が強い、と言われていたし、思っていた。

ところが、昨今のCMの状況を見ていると、共感して、現状を追認するだけだと売れるどころか、逆に炎上して企業のイメージを毀損してしまうケースが目立つ。

例えば、本作にもあげられているように、「ワンオペ育児」をしている母親を励ます内容のCM。ターゲティングして、現状に共感して、その上で「応援」しているのに、性的役割分担を強調していると、批判されてしまう。

 

これからは、それだけじゃダメなんだ。半歩先の理想、を示さなければならない。

まあ考えてみれば、当たり前のことである。

 

広告とは、モノを売るためにある。モノを売って、買い手に新しい価値を提供する。

何かを売る広告において、現状を追認すると言うことは、モノを買ったところで、枠組み、例えば性的役割分担から逃れることはできない、とうのを認めているのと同じだ。

例えその調味料とか、洗剤とかで、ちょっと便利になったとして、女が家事をするのは変わらない、と言う風に。

 

あるモノ1つ買うことで、枠組みそのものを変えてしまうのは、難しいかもしれない。

でも、広告によって希望を示すことならできる。これから向かって行きたい方向に、提案することなら。

 

そう考えると、炎上しているのは、CM視聴者の高い期待の現れなのかも、と思える。

読書ブログはじめます。人間であるうちに。

本を読めるのは、人間の特権だ。

もっと言うと、世界がどんなところか知れるのも、知りたいことだけ知れるのも

人間だからだ。

当たり前すぎて、考えもしないけど不思議だ。

だって、今、私が私であって、こうして考えているのって、たまたま人間として生きてるからだ。

そして、その時間は、長かったとしても後80年ちょっとしかない。(今30歳なんです)

死んだら意識が残るのかどうかはわからないけど。

意識がそのままだったとしても、次同じ私にはなれない。人間じゃないかも。

人間じゃなかったら、他の動物だったら、本を読むこともないし。

(読んでたら、かわいいけど。)

生きるのに必要なことだけ、考えればいい。餌とか、異性のこととか、敵とか。

 

話は変わるけど、社会人になると、ビジネス書ばっかりを勧められる。

ビジネスに役に立たない本の、存在意義を、考えてしまう瞬間が、本好きには来る。

 

でもさ、社会人である以前に、みんな、人間だ。

生命活動に役に立たないことを、やれるのは、人間だからだ。

自分の仕事とか、生きるとか、そんなん関係なくても、宇宙はどうなってんのとか、遠い国の歴史とか、そんなことに思いを馳せられるのは、人間だからだ。

役に立たない本なんて、読んでも意味ない。そんなこと言っている人は、ほっとこう。

 

本を読んで、冒険しよう!人間であるうちに、人間を楽しもう!

そう、思ったので、読書ブログ、はじめます。